荒川區祇園會の歩み

昭和22~33

地元の大室木工所が屋台を製作し、うちわ祭りへ参加。

翌年に屋台が町内へ寄贈される。

上の写真には「荒川」の高張提灯がついた屋台が2台並んでいるが、右の屋台は伊勢町の屋台で、うちわ祭り参画以前は荒川の提灯を付けていた。

昭和31年
昭和31年

町内の有志により、お囃子のみを行う囃子方、神輿や屋台巡行を行う若連とがそれぞれに分かれて参加していた。

昭和34 

熊谷祇園会発足 袢纏(鼠地に白の大煉瓦柄、襟に白で「熊谷祇園会」)製作。発起人として荒川區 大木孝吉氏参画。

若連が熊谷祇園会に加入した。

昭和30年代の町内巡行
昭和30年代の町内巡行

昭和35 

荒川區の囃子方を「ちどり会」と命名、発足される。

昭和39 

【年番】補足:熊谷祇園會発足後9年間、町内では祇園會としての活動が認められず若連として祭りに参加していた。

昭和43 

町内で正式に祇園會としての活動を承認。大塚利章氏が支部長に就任。

『絆纏(荒若)製作』

補足:正式な承認を得る為に尽力を尽くした坂田輝正氏が荒川區祇園會の後見人となる。

昭和40年代
昭和40年代

昭和47 

【年番】町内での記録は無し。

昭和48 

東京銀座祭りに荒川區祇園会参加。『絆纏(藍地 背中に祇園)製作』

東京銀座祭りにて
東京銀座祭りにて

昭和49 

大塚利章氏が本部副会長に就任。山中雅晴氏が支部長となる。

昭和55 

【年番】祭りinハワイに参加。

熊谷祇園会会長の辞任により、年番町の荒川区から内田清治氏が会長に就任。

三光石油前にて ちどり会
三光石油前にて ちどり会
お祭り広場にて
お祭り広場にて

昭和56 

かねてより一線を隔てていた祇園会とちどり会(囃子方)という2つの体制を変えるべく両幹部による話し合いが行われ、ちどり会を祇園會と統合することで合意し、総じて現在の体制の荒川區祇園會となる。

昭和57 

内田清治氏が本部会計に就任。矢島洋次氏が支部長となる。上越新幹線開通記念祝賀会での囃子奉納に参加。

昭和60 

早川周一氏が支部長に就任。

三光石油前にて
三光石油前にて

昭和63 

【年番】埼玉博覧会に荒川區屋台参加。 『浴衣(紗綾型)製作』

平成元  

會所に紅白幕が導入される。(渡辺仁氏より寄贈)

平成2  

荒川區初代組頭 根岸清次氏の葬儀にて屋台を出庫し、出棺囃子を行う。

大阪「花の万博」に参加、囃子披露。

大阪に屋台の足回りを搬送し、京都の上物を仮で組み上げた屋台を使用した。

大阪万博にて
大阪万博にて

平成5  

早川周一氏が本部役員に就任。林健二氏が支部長となる。

平成6  

『絆纏(黄緑地 背中に祇園會源氏車)製作』

平成8  

【年番】埼玉県立伊奈学園総合高等学校にて囃子の披露及び指導を行う。

『絆纏(鼠六三 背中に祇園會源氏車 )製作』

三光石油にて
三光石油にて

平成9  

古坐一男氏が本部副会長に就任。

平成10 

テレビ埼玉の取材として、八番組敷地内にて屋台での囃子を披露。

武蔵丘陵森林公園のイベントに参加、囃子披露。

町内巡行中のリヤカーによる給水車、救護車同行制度を導入。

平成11 

熊谷市立荒川中学校の文化祭特別授業として囃子の披露及び指導を行う。

森林公園開園25周年記念事業に参加、囃子の披露を行う。

平成12 

さいたま新都心の街開きイベントに参加、囃子披露。

荒川中学校の文化祭特別授業として囃子の披露及び指導を行う。

荒川區の町内神輿として、見晴町の故 松村氏作の神輿を譲り受ける。

行田浮城祭りにおいて、遊心會の神輿への参加を開始。

行田浮城祭りにて
行田浮城祭りにて

平成13

林健二氏が本部副会長に就任。

平成14 

『絆纏(象牙地 背中に祇園會源氏車)製作』

巡行祭前
巡行祭前

平成15

小林健一氏が支部長に就任。

「江戸開府四百年記念 江戸天下祭」に熊谷祇園会として参加。

江戸天下祭にて
江戸天下祭にて

平成16 

【年番】「彩の国まごころ国体及び障害者スポーツ大会」で屋台巡行、囃子披露。

救護施設 羽生園にて囃子披露。

熊谷ドームにて 彩の国まごころ国体
熊谷ドームにて 彩の国まごころ国体

平成17 

熊谷市初となる屋台でのアンダーパス越えを成功させる。『浴衣(青 波柄)製作』

平成18 

栗岡秀公氏が支部長に就任。

荒川區祇園會の会則を制定。祭事役員の寄付により大胴の張り替えを行う。

平成19 

読売新聞の取材を受け、埼玉欄に練習風景が掲載される。

平成20 

屋台製作及び二代目組頭 根岸幸次氏の生誕六十周年を記念し、初日午後に町内神輿を行う。

会所前にて 屋台・根岸組頭生誕60周年記念
会所前にて 屋台・根岸組頭生誕60周年記念

五丁掛けの締太鼓を導入。

有志会員の手作りにより、第弐荒川區(リヤカー型屋根付給水車)が製作される。

第弐荒川区
第弐荒川区

平成21 

「熊谷祇園會五十周年記念祭」にて屋台巡行及び囃子披露を行う。

荒川區祇園會公式ホームページを製作、公開を開始。

平成22 

埼玉新聞より荒川区の大胴について取材を受ける。

埼玉サイクリングフェスティバルにて囃子披露。

平成23 

東日本大震災の復興支援として募金活動を行う。

うちわ祭り3日間で3度のアンダーパス越えを成功させる。

屋台最終巡行。

会所前にて
会所前にて

平成24 

【年番】老朽化した屋台に代わり新たな山車が建造される。

山車竣功報告祭に参加、町内巡行を行う。

立正大学で行われたイベントに参加、囃子披露を行う。

熊谷祇園会への長年の貢献を讃えられ、坂田輝正氏、早川周一氏、吉田賢吾氏が感謝状の贈呈を受ける。

岡本建商前にて 山車、旧屋台
岡本建商前にて 山車、旧屋台

平成25

鯨井利幸氏が支部長に就任。

さくらマラソンにて旧屋台での囃子で沿道応援を行う。

初めて高校生でもお囃子会としての参加を容認。

熊谷市立南小学校のふれあい学習として囃子の披露及び指導を開始。

会員向けの会誌を発行。

旧屋台でさくらマラソン応援を行った様子
旧屋台でさくらマラソン応援を行った様子

平成26

献灯寄付で長年上げてきた提灯を、献板へ一新。

省エネ運用を目指し、照明もLED仕様に変更した。

一新された献板
一新された献板

 平成27

うちわ祭り最終日の町内巡行にて、初めて熊谷駅南口のロータリーを通過。

平成29

子供お囃子会の参加年齢を、従来の小学5年生以上から小学4年生以上に引き下げる。

平成30

吉田雄介氏が支部長に就任。

八番組組頭、根岸幸次氏の逝去を受け、山車を出庫し出棺囃子を行う。

平成31(5月1日より令和元年)

第38回飯能郷土芸能フェスティバルにおいて、熊谷祇園会の代表として弥生町区とともに出演し、お囃子披露及び纏振りを行う。纏振りは荒川区祇園会の5人(鯨井利幸、岡山貴紀、吉田竜太、木村能久、金子岳史【年齢順】)が代表として務めた。

改元となった5月1日の令和元日、天皇陛下のご即位にあたり、荒川区山車庫前にて奉祝囃子を行う。

同日、奉祝囃子終了後に熊谷祇園会の60周年記念事業を兼ねた奉祝巡行に参加。

ラグビーワールドカップが日本で開催され、熊谷会場にて行われた3試合(9/24、9/29、10/9)に熊谷祇園会として来場客や観光客へ向けて、山車・屋台の展示及び囃子披露にておもてなしの奉仕活動を行う。荒川区祇園会は銀座区とともに、会場である熊谷ドームでの山車展示及び囃子披露を行う。

令和2年【年番】

富田大総代をはじめとする総代、組頭、祇園会の合同で、島根県出雲大社へ正式参拝を行う。荒川区全体として号令をかけての参拝及び旅行は初めて。

 

新型コロナウィルスの世界的流行を受け、日本政府は緊急事態宣言を発令。

それに伴い、全国規模でイベントや祭りの中止が決定。

富田大総代の判断により、熊谷うちわ祭りでもごく一部の関係者だけで神事を行い、山車や神輿での音出し等は全て自粛することとなったが、宮司の要請に伴い急きょ、荒川区祇園会が最終日神事で奉納囃子を行った。

なお、この様子は、会員の手により各SNSを使ってライブ配信され、多くの熊谷市民にこの年唯一のお囃子の音色を届けることとなった。

令和3年【年番】

前年、新型コロナウィルスの影響により諸行事が中止となったこともあり、荒川区が史上初めて2年続けての年番となった。

6月時点で感染者数が増加傾向だったこともあり、この年も山車・屋台等の附け祭は中止となり、神事中心で行った。

前年と違う点として、お祭り広場に御仮屋を設置し神輿を車輛に乗せて安置、最終日に御仮屋前にて年番送りの儀を行った。その際、この年では唯一、荒川区と迎え年番の鎌倉区のみが奉納囃子を行い、その様子は前年同様、荒川区会員によってSNSを使ってライブ配信された。

令和4年

この年の祭りでは、規模縮小という形で前年度より一歩進めて山車の巡行を行った。

荒川区では3年ぶりに町内へお囃子の音を届ける試みとして、町内の各エリアごとに30分程度の駐留時間を作り、そこで子供たちによるお囃子を行った。

町内巡行の移動中は無人・無音の山車を引くという形ではあったが、ウィズコロナの祭りとして確かな一歩を示した。

令和5年

新型コロナウィルスが5類感染症に変更されたことで、例年に近い形での祭り開催が可能になる。

巡行祭は昼からではなく夕方から開始された。